『思い出の跡』
『思い出の跡』とは
2012年
この曲が出来たのは震災から一年半になろうとしていた頃。震災前の自宅の場所が危険区域に決定したと分かった日のことです。計画では出ていた危険区域の線引きが条例で可決したと聞かされたとき、それまで、そこに戻ること、そこで家を再建することを希望にしてきた自分には、にわかに受け入れることが出来ず悶々と眠れない夜になりました。仮設住宅の小さなお風呂に蹲ってシャワーの音に紛らせ声を殺して泣きました。震災後、行方不明だった友人のご遺体に会わせていただいた時以来でした。
それは、成すすべのない悔しさと無力感と喪失感と・・・。そして浮かんだのがこの詞でした。その侭を走り書きし朝を迎えたのです。
次の日、閉店後の店(経営しているパスタ専門店コパンFC亘理店)で、いつも置いている娘のギターを鳴らしながら曲をつけました。地元の方々の前で歌うときは目を合わせないように譜面台から視線を外さないようにしています。涙で歌えなくなってしまいますから。
実は震災の直後は、私自身はそれほど喪失感を感じていませんでした。なぜなら、一言で言えば想定内だったから。「いつかこんな日が来る」と嫁いだ時から無意識に思っていて家族で話していました。だって元々砂浜のようなところだった場所なのですから。しかし、それを日々意識していたら生活が成り立ちません。その時は諦めて生き延びることだけ考えようね。と。だから当日、自宅に居なかった私は、車のラジオから大津波の情報が流れた時「今日だったんだね。もう我が家もないね。」と一緒にいた夫と娘と話していました。「仕方ないから一番先に掘立小屋を建てて住もう。」とも
しかし、無情の危険区域指定。
理由は「危険だからと専門家が言っているから」だそうです。指定されたこの場所は約45年前、県と町が砂浜同然だった土地を造成し、ぜひ住んで下さいと言って分譲した住宅地です。しかし、想定外ですから・・・。だそうです。砂浜だったのに・・・。
それでも戻りたい。今でも思います。危険なのに何故?と聞かれます。理屈なんかありません。「そこに生きていたから。」としか答えようがありません。裏技があるなら教えていただきたいです。
こんな愚痴を並べた歌です。地元の仲間たちと一緒に泣いて、また歩き出すためにつくった曲です。
歌詞
『思い出の跡』
1
あの日突然 僕らの暮らしが消えた
写真も ビデオも 愛する人さえも
悔しくて 悲しくて 苦しくて
怒りに震えても ぶつけるものさえ無かった
僕らは今 覚めない夢の中
異次元を生きているようで
目が覚めたら あなたに逢える
そう信じていたい
2
波の後 残った 僅かな暮らしの跡
家の基礎 庭の石 アスファルトさえも
危ないからって 一言だけで
復興の大義名分に また流されていく
僕らが確かに ここで暮らしていて
笑ったり 泣いたり 怒鳴ったり
ただ普通に 生きていた証が
少しずつ消されていく
ここに道があって
ここに家があって
ここに店があって
ここに畑があって
ここには公園があって
春には桜が咲いていた
もう一度 ここでって思うのは
我が儘なのでしょう
僕らの中に残されたのは
たった一つ
『思い出の跡』
ここで生まれて ここで育って
ここで老いると決めていた
ささやかな 僕らの思いは
ここに嫁いで ここに育てて
ここに老いると決めていた
ささやかな あなたの思いは
もう一度 ここでって思うのは
我が儘なのでしょう
ともに遊び ともに学び
ともに老いると決めていた
ささやかな 僕らの願いは
僕らの中に残されたのは
たった一つ
『思い出の跡』
ここには公園があって
春には桜が咲いていた